成人式

先日(2006-01-08)、地元の成人式に出席した。
私が生まれ育った町は、同郷のChiba氏の言葉を借りるならば閑静な住宅街、しかし現実問題として少子高齢化の浸食が進みつつある、関東地方(しかし川を渡ればそこはもう東海)の片田舎である。山河に囲まれ、温泉が湧き、海に面し、一年を通じて温暖な気候であることから(お陰で雪が降らない)、一般的には観光地として認知されているようだ。だがしかし、日本の他の多くの観光地がそうであるように、経済的に芳しいとは言えないのが現状で、バブル崩壊後は資本の流出が進み、廃墟となったホテルや別荘は珍しくない。何も無い、という表現が適切であるように思われる。そんな場所が、私の幼少期の舞台であった。
小学校は居住区によって3つに分けられているものの、公立の中学校は一校しかない。中学受験は、そもそもそれを考える人間が数えるほどしかいないため、原則みんな同じ中学校に進む。よって、町中の子供はほとんど全員が同じ町立中学校に進学し、そこを出て初めて進路が分かれる、こんな感じである。この町の唯一の中学校のある一学年が、全員同時に成人を迎えるのであるから、それは同窓会と呼ぶに相応しいのだ。
そんな町の成人式に、私は出席した。なお、当日の状況について、細かい描写は避ける。以下は、成人式の会場および小学校時代のクラス会(のようなもの)で、私がぼんやりと考えていたことである。
魯迅の代表作の一つに、『故郷』という作品がある。国語の教科書にも載っていたので、私の世代の人間ならば、文学にあまり触れない人(私を含む)でも知っていると思う。「ルントウ」「チャー」「ヤンおばさん」「豆腐屋小町」という単語を聞いて、思い出した方も多いのではないだろうか。
私はただ漠然と、この作品の主題は現代社会における歪みの風刺であると思っていた。魯迅といえば、陳独秀胡適らと並ぶ、文学革命やら新文学運動やらの中の人というイメージがある。だから、彼は中国の民衆を啓蒙する目的を持っており、この『故郷』という作品では農村の現状を体現する存在としての「ルントウ」こそが、本作品における主人公格であると思っていたのである。
話を成人式に戻す。他の自治体の成人式についてはあまり調べていないが、おそらく、田舎では田舎の、都市部では都市部の、それぞれの特徴があって、どこでも似たような成人式だったのだろうと思う。スーツを着た男たち(それより少ない割合で袴をまとった者もいた)、和服を着た女たち――みんな変わってはいたが、それでもここが都市部でないことは一目瞭然であった――このような人々が所狭しと集まっていた。
だが、私の目を引いたのは彼ら同級生ではなく、彼らの子供たちだった。予想以上に所帯を持つ人間が多かったのだ。私と同年齢なのに、である。
私はある友人の息子を見せてもらった。もう生後9ヶ月になるそうだ。名前は、今風の格好良いものだったが、漢字が難しくて覚えられなかった。私は、「人は子を成すことができる」という、そんな当たり前のことに驚きを覚えた。ここ5年間くらいPC関連のことに目を奪われていて、忘れていただけなのかもしれないが。
友人の子よ。君は、君の父親や母親や彼らの友人たちが過ごしたような少年時代を、同じように送るのだろう。町中に点在するいずれかの保育園・幼稚園に通うのだろう。母親に連れられて、破産管財人に経営が引き継がれた某量販店へ一緒に買い物に行くのだろう(私の実家の近くの農協系列の店かも知れない)。そして、私の母校でもある小学校に入学するのだろう。学校帰りに友人たちと神社で遊ぶのだろう。公園の近くの駄菓子屋(あそこのお婆さんは健在だろうか、確認し忘れてしまった)に行ったりするのだろう。坂が多いから、自転車をこぐのは大変だろう。そしてきっと多くの先人がそうであったように、町立の中学校に入学するのだろう。帰宅部になるかもしれないし、あるいは真面目に防砂林の中をランニングするようになるかもしれないが、とにかくどれか一つの部活に、強制的に入らされることだろう。そして中学を卒業して、その後は、その後は――。
友人の息子の顔を見ながら、このようなことを考えていた。そして、魯迅の『故郷』が突然思い出された。この作品の主人公は、「わたし」でも「ルントウ」でも「ヤンおばさん」でもない。ルントウの息子の「シュイション」、そして「わたし」の甥の「ホンル」、この2人の子供たちこそが『故郷』における中心人物であったのだ。そして、魯迅は彼らに希望を託したのだと、5年の年月を経て私はようやく気付いた。
だが、私と魯迅で決定的に違う点がある。シュイションとホンルが世間に流されることなく友情を築いているのを見て、魯迅は希望を見出したのかもしれない。しかし、私は希望を見出すことができなかったのだ。私は故郷での幸せを見失ってしまったようだ。いや、最初からそんなものはどこにもないのかもしれないが。
去年から、妹研では自らをNEETと名乗ることが流行し、コン研では他人をジェントリ(郷紳)呼ばわりすることが横行している。思うに、これらは本質的には同じことなのではないだろうか。そして、地方ではそのどちらもが通じないのだ。かつて、高校時代の担任の先生は、「語彙を増やしなさい」と言った。今になって、その大切さが分かったような気がした。だが、語彙の問題ではなく、それ以上の大きな壁が確かにあった。
「まるで『木綿のハンカチーフ』みたいね」と、ある人は言った。あの歌には、恋人よ 君を忘れて 変わってく 僕を許してという一節があって、そのことを言ったのかもしれない。確かに私は変わった。だがあなたも変わった。お互い、歳をとったものだ。
私の故郷は、色褪せていた。
池袋の駅に降り立ったとき、都会の喧騒を感じた。パスネットを実家に置いてきてしまったので、私は東京メトロ有楽町線の切符を買わなければならなかった。千川までは160円だった。